2011年8月9日火曜日

さんさ踊り由来

藩政時代から受け継がれてきたさんさ踊りの起源は、三ツ石伝説に由来しています。


その昔、南部盛岡城下に羅刹鬼(らせつき)という鬼が現れ、悪さをしてあばれておりました。困り果てた里人たちは、三ツ石神社に悪鬼の退治を祈願しました。


神様はその願いを聞き入れて悪鬼たちをとらえ、二度と悪さをしないよう誓いの証として境内の大きな三ツ石に鬼の手形を押させました(これが岩手の名の由来だと言われています)。


鬼の退散を喜んだ人たちは、三ツ石のまわりをさんささんさと踊り回ったのが「さんさ踊り」の始まり
だと言われています。


上記はさんさ踊り公式HPに記載されている由来である(岩手の地名の由来にもなってる)。

これは三ツ石伝説説となるが、更に以下のこともこの説に付属となる。

さんさ踊りは最初はゆったりとした輪踊りだったものが、文化・文政期南部利敬公の奨励によって踊りが改良され獅子踊り剣舞神楽などの一部が流用され33のくずし踊りを新作し三本柳に巻きものにして伝授した。

これが近郊に広がっていったが、当時は伝統を守り他の地域にそのまま教えなかったため、地域によって違う踊りや太鼓が伝播していった。


黒川の説

平安後期の「前九年の役」にて八幡太郎義家(源義家)安部貞任らを討伐するために黒川集落内に兵を進めたが、阿部氏の守りを崩すのが難しかったため、関東武士が指揮を鼓舞するために夜を徹して踊り明かした。

そのときの踊りがあっぱれだったので戦いの後に集落の住民が五穀豊穣の祈りを込めて踊り継いだという説。

その他にも寺の坊さんたちが「坊主帰り」として踊り歩いたという説、平安時代初期に詠唱念仏が踊る宗教となり、供養のための念仏踊りがさんさ踊りになったという説、念仏踊りや念仏剣舞が風流化、手踊り化したのではないかという説等がある。



簡単に言うと発端は定かではないが、以前からある念仏踊り、剣舞等からさんさ踊りができあがり、をれを南部家時代に今の踊りのようにまとめたものを三本柳が伝授。更に他地域に広げたという感じであろうか。


個人的には三本柳が黒川以外の殆どのさんさ踊りの祖だという説にはちょっと否定的である。
なぜなら、三本柳をはじめとする旧都南村地域及び、矢巾町紫波町の(要するに旧紫波郡)のさんさと盛岡市北部、西部のさんさは別種だと思われるからである。

紫波郡地域のさんさは剣舞の影響が濃く、盛岡北部のさんさは剣舞よりナニャドヤラの影響が濃い気がするのである。

北山だけ浴衣に南部藩の模様を使ってるとか、鉄砲を使用した踊りがあるとか等、一部で北山起源説もあるが、北部、西部の起源は北山という可能性も否定できない。

ちなみに盛岡さんさ踊りの統一さんさは山岸、大宮等の盛岡北部、西部のさんさ団体から作られてういるので、掛け声も「サッコラ チョイワ ヤッセ」となるが、三本柳等は今でも「サッコラ コラサノヤッセ」である。

花笠仙北小鷹以南の花笠とそれより北の花笠が違うというのも面白い。又南地域の踊りは太鼓の踊り手が首を振る動作が多く剣舞的である。


各団体の踊り、衣装、小道具、演目等見比べていくと、どの団体からどの団体に伝播していったかはもっとハッキリするのではないかと思う。

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